垂水のこと

地名あれこれ

垂水

「垂水」というのは「垂れ水」-「滝」ということで、東垂水から塩屋へ続く道路の北側に、水の滴りが絶えることがなかったところが、昭和になっても4か所(駒捨の滝、琵琶の滝、恩地(おんぢ)の滝、白滝)あったとされています。今では跡形もありませんが、この滝が地名の由来になったものと推測されます。
万葉集にも「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる春に なりにけるかも」の歌があり、延喜式(927年)の中にも、垂水郷の名が見えます。 

塩屋

「塩屋」という地名は、古代からここで塩がつくられていたことからきたのです。
鉢伏山頂上部の南面に、六世紀の古墳がありますが、この時代に製塩していた人達のものだろう・・・といわれています。 

菅公橋

JR塩屋駅の東側で、国道2号が山陽本線をまたいでいます。この陸橋を「菅公橋」と呼んでいます。 平安時代初期の学者菅原道真が右大臣になりましたが、左大臣の藤原時平とうまくいかず、九州の大宰府(朝鮮や中国との外交機関)に左遷され、大阪から船でくだってきました。 神戸の和田岬で暴風に遭い、陸路にかえました。
この時代は、鉢伏山が海岸に突き出ていまして、海岸沿いの道はありませんでした。 西宮神社の吉井宮司が、万葉集の中から「荒磯越す 波をかしこみ 淡路島 見ずや過ぎなむここだ近きを」の歌を見つけ、古山陽道は、須磨から多井畑に回っていたことを明らかにしました。
 菅原道真は、この古山陽道を通って塩屋に出て、明石へ行きました。この時、明石の駅家(うまや)の駅長が、塩屋まで迎えに来たという伝説から昭和8年に造られたこの橋に「菅公橋」と名づけたのです。 

旗振山

旗振山の茶店の所は、東西によく開けています。 江戸中期から、明治30年の電信が開通するまで、ここで大きな旗(畳一枚大)を振って、大阪の堂島の米相場(値段)を、明石や、加古川、岡山方面に伝えていたので「旗振山」と呼んでいるのです。 

鉄拐山

昔、猟師が鹿やイノシシを獲るために「鉄カセ」を仕掛けたという言い伝えから「鉄拐山」という名になったといわれています。 

鉢伏山

神功皇后が朝鮮遠征の帰途、この山頂にカブトのハチを埋めたという伝説をもっていますが、お鉢を伏せた形から名づけられたのでしょう。 

垂水の灯台(平磯灯標)

垂水のシンボルとして「垂水の灯台」は明治時代から有名になっています。 この灯台付近は「平磯」といって暗礁になっていて、昔から明石海峡の難所で、たくさんの船が難破しました。 そのため江戸時代から木製の灯標を何度も立てたのですが、潮流が激しいので、すぐに流されてしまいました。
明治26年(1893年)に、英国人技師の指導で、鉄筋コンクリート造りの灯台が建ったのです。それが現在でもそのまま使われているのです。 山口県小野田市にある旧小野田セメント工場内に、日本で最初に造られた(明治16年)セメント燃結炉が、山口県指定史跡として保存されています。 そこには、この燃結炉で作られた第一号のセメントで垂水の灯標が造られた-と書かれています。 

ジェームス山外人住宅街と井植記念館

明治元年の神戸開港で、つぎつぎと外人がきましたが、その中で英国人は、ほとんどが塩屋の海辺に家を建てて住みました。 その一人のカメロン商会のジェームスさんの息子が、昭和7年頃から、この塩屋の山を開発して、50軒の外人用貸住宅を建てましたので「ジェームス山」と呼ばれているのです。
 終戦後には、このジェームスさんの家は海軍経理学校の校長公舎になりましたが、戦後ジェームスさんがカナダから帰り生活していました。 
しかし昭和29年に亡くなりましたので、サンヨー電機の故井植社長が、土地と貸住宅をともに買いとり、ジェームス山団地(美山台、青山台)として造成されたのです。 井植さんは昭和44年に亡くなり、こよなく愛していましたこの高台に、「井植記念館」が建てられました。絶景の場所で、区民にも利用されています。